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雑誌WABIとは

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WABIは弊社発行の盆栽関連総合カタログ雑誌です。
通巻第18号を数え、盆栽・水石・樹鉢・卓・掛け軸などの通信販売の他、日本の盆栽文化・伝統をお伝えしております。
現在は販売しておりません。

作家一覧

市川苔州 いちかわ たいしゅう
(明治33年〜昭和46年)
昭和初期に活躍した苔州(本名・寛)は、28歳の時には東京下谷・池の畔で土窯を持ち、盆栽材料等を作るかたわら盆栽・草花等を商っていたという。その時の園号が「苔州」であった。その後、目白へ移り陶器の窯を築く。花瓶、茶道具、美術品等を焼き、盆栽鉢の作陶はわずか10年にも満たないといわれている。俗に「苔州小豆」と呼ばれる辰砂系の釉と珊瑚釉、この2種が苔州鉢の代表とされる。小豆釉を特色とする鉢作家には小野義真がおり、「気品」の小野、「用の美」の苔州ともいわれている。
伊藤涛山 いとう じゅざん
経歴その他、詳しいことは不明であるが、明治初期から昭和初期まで活躍した京焼きの陶工であることは確かで、いずれ名のある陶房の職人もしくは下職であったと思われる。その染付は、中国明代の発色のように、白磁との対比が素晴らしいものがある。
伊藤月香 いとう げっこう
昭和14年生まれ。近代小鉢界において、繊細な染付を作出する名手として名高い鉢作家。陶芸一家に育ち、専ら染付け、赤絵、五彩等を作る。
井上良斎 いのうえ りょうさい
小鉢界に巨星として名を残す井上良斎は、三代に亘り作品を世に残した。
初代井上良斎は文政11年(1821年)に尾瀬瀬戸に生まれ、川本治兵衛に師事、後に松平摂津守の招きで江戸に移り、その邸内で磁器を主に作陶した。明治初年、隅田川畔の浅草橋場町に自らの窯を築き、東玉園良斎と号した。
初代は嗣子がなく、三世川本治兵衛を養子に迎え、二代良斎川本治兵衛とした。明治10年、第一回内国勧業博覧会に出品して受賞、内外博覧会でも幾多の受賞を経て、宮内庁の用命を排することも数十回にも及んだ。二代は明治33年に招かれて渡仏、東洋芸術の真髄を発揮して名誉金賞を受けた。
しかし、帰国後、病に倒れ、その子供が三代良斎を継ぐ。板谷波山に師事し、波山の門人として五指に入る存在である。昭和3年帝展初入選、日展審査員を歴任し、昭和41年、芸術院会員となった。
上野玉水 うえの ぎょくすい
盆栽・水石飾りに用いられる道具において、最高レベルの評価を受けている木彫作家。明治から昭和の初めまで活躍したが、経歴その他は詳細不明で、京都に生まれ、京都に生き、終焉の地も京都であったと伝えられている。
作風は非常に緻密で、「玉水三十六禽」と謳われるほど鳥を得意とし、他の追随を許さない芸域に達している。庵号・蝸牛庵を名乗るのは還暦を過ぎて以降のこと。鳥の羽を一枚彫るのに3日かかるといわれるほど、細部の仕上げに強いこだわりを持った結果、非常な寡作であり、作品が市場に出ることもほとんどなかったようである。
植松陶翠 うえまつ とうすい
(明治32年〜昭和34年)
植松陶翠(本名・長太郎)は明治32年、東京滝野川の鉢問屋の長男として生まれ、家業の影響大にして若き日より陶芸の興味を抱いた。盆栽鉢の作家というよりは、そのデザインや釉薬の研究に優れた才能を発揮し、プロデューサー的な存在となる。
滝野川に住み込んでいた瀬戸の陶工・水野正雄との出会いにより、「陶翠」の落款を用いて盆栽鉢の製作を指揮し、数多くの名品を世に残した。つまり、植松長太郎のデザイン指導・釉薬の指示により、水野正雄の成型・焼成という形で生み出された作品が、いわゆる陶翠鉢である。日本水盤四天王(呑兵衛、陶翠、一陽、峯雲)の一翼を担う大名品を残した。
英正 えいしょう
(明治23年〜昭和46年)
平安英正(本名・若原英正)は若年から茶道を嗜み、自ら俳句家元「素芳庵」を名乗るなど、相当な粋人だった。金物商の生家を継いで鋳造の世界に入っても、本来作るべき日用雑器には目もくれず、和菓子用の型を作り、やがて当時流行だった煎茶人の愛好する唐銅作品などの制作に没頭する。
英正作品は今日では盆栽・水石の添景として愛好されるが、元々は煎茶趣味の文房清玩の一環だった。製法は蝋型鋳造がほとんどで、緻密な作品から一ヶ月に三、四個しか作れなかったという。精巧かつ雅味豊かなことが特長とされ、大正初期から昭和初期の頃に秀作が多い。
永楽善五郎 えいらくぜんごろう
永楽家は京都の著名陶家として十七代を数え、千家十職のひとつである。茶道界においても、陶芸界においても名高く、盆栽界においては小鉢界の至宝とさえ言われている。当初、茶道に用いる土風炉を作っていたが、三代目は茶人としても有名で、小堀遠州から「宗全」の銅印を贈られた。十代目以降、家業以外に楽焼きや、交趾写しなども手がけるようになる。十一代保全の時、初めて永楽姓を名乗るが、正式に永楽姓となるのは彼の没後、彼をもって初代永楽善五郎とする。
越前芳水 えちぜん ほうすい
(昭和11年〜)
昭和11年生まれ、本名・吉田善蔵。盆栽園を営むかたわら、余技として昭和52年より小鉢の作陶を始める。陶芸としての良し悪しではなく、あくまで鉢映りのよい鉢を作ろうという意図が強く、盆栽界で比較的品薄とされる釉鉢に力を注いだ。
尾形光琳 おがた こうりん
(万治元年1658年 〜享保元年1716年)
尾形光琳は、江戸時代中期を代表する名高き日本画家。その名から起きた「琳派」は、現代に続く日本美術界における意匠、デザイン、色彩感覚すべてに多大な影響を与えた。
俵屋宗達、酒井抱一とともに琳派三名筆と謳われ、国宝に指定されたMOA美術館蔵の「紅白梅図屏風」はあまりにも有名。
小川悠山 おがわ ゆうざん
(明治4年〜昭和11年)
悠山・小川松露齊(本名・静吾)は明治中期から昭和初期まで唐木細工師として腕をふるった名工。素材の吟味、特に紫檀の吟味は超一流で、古山物(ふるやまもの)の縮杢を選んで用いたと伝えられる。
作行きは非常に幅広く、大は衝立、飾り棚から、小は小卓、葉盆、莨盆(たばこぼん)まであり、巧緻にして格調高い。机卓類は天拝が多く、その飾りも蝙蝠、蕨手等が代表的。
悠山は名工であるとともに、大勢の弟子を育成したことでも知られ、晩年はその弟子たちが材の加工や組み込みを行った。悠山は意匠を決定し、彫刻の仕上げや銘を入れるのを専らとしたという。いわばプロデューサー的役割を果たしたわけで、高度な美意識と漢学の素養から工芸即美術品、芸術品とする明治新思潮を反映できるだけの人物でもあった。
小野義真 おの ぎしん
(天保10年〜明治38年)
小野義真は天保10年、時の士族・小野安衛義信の長男として生まれた。明治3年、31歳にして工部省に出仕、大隈重信侯の下僚となって以後、正六位を賜り、土木頭として栄進を続けた。その後、事業家として手腕を振るい、日本鉄道株式会社の創設に参画、社長の任にもあたった。
官界・実業界で活躍する一方で、刀剣・碁・俳句・盆栽と豊かな趣味を持ち、瀬戸の陶工・加藤正吉を抱えて小野窯を開き、自らはデザイン・釉薬を工夫するなど、道楽の域を超える数々の作品を生み出した。名作といわれるもののほとんどが、磁、または半磁を使ったロクロ丸鉢で、その釉薬は他に類を見ないほどの高い完成度の品格を呈している。
片山一雨 かたやま いちう
片山一雨(本名・貞一)は、戦後から現代へと続く水石界の王道を築き、数え切れぬほどの盆栽・水石家にその薫陶を受け継がせ、今も天界に輝き続けている。美術鑑定家としても一家をなし、当代随一の目利きとして数多くの水石の見立てと箱書きをなした。
華中亭道八 かちゅうてい どうはち
伊勢の国に生まれ、京都栗田口にて開窯した初代を祖とする道八は、八代続く伝統ある陶家。二代は永楽保全・青木木米と並ぶ、幕末三名工の一人にあげられる人で、窯を清水に移し京焼きの伝統を受け継いで「雲綿手」を完成させる。幕末から明治にかけて活躍した三代は白磁や青花に秀で、華中亭道八を名乗る。四代は西洋式陶業が導入され始めた明治期に活躍し、家伝釉料を改良、また染付磁・白磁・彫刻を得意とした。京都美術協会の評議員等も務め、同業者や後進の指導にあたるなど、京焼きの革新に貢献した。五代は多彩な陶技を究め、三井・鴻池家とも深い交流があったという。
華中亭道八は、盆栽の小鉢界においても至宝とされる名品を残しているが、その多くが四代、五代の手になるものと推察されている。
葛木香山 かつらぎ こうざん
小川悠山、日比野一貫齋らと並ぶ唐木細工の名人。盆栽界とのかかわりにおいて卓・飾作りに活躍するのは昭和初期から終戦に至るまで、ごく短い期間である。材を紫檀、鉄刀木、花梨などの、特に縮れ杢にとり、繊細にして巧緻、いわゆる垢抜けた作風で知られる。代表的な作品としては算木中透卓等があり、また中国斑竹や紅斑竹と唐木材を取り合わせて作った煎茶趣味のものもある。
金子一彦 かねこ かずひこ
大正から昭和にかけて、特に戦前・戦後に活躍した唐木細工の名工。仰木流の流れを汲み、小川悠山と葛木香山の作風を合わせ持つ作風で、重厚な中にも繊細さがうかがえる。材の選択の厳しさには定評があり、飾り棚、机卓、座卓等に名作を残した。
川合玉堂 かわい ぎょくどう
(明治6年〜昭和32年)
川合玉堂は明治6年、愛知県に生まれ、8歳の時に岐阜に移り住み、14歳で京都に上り、望月玉泉、幸野媒嶺に師事して四条派の画法を修得する。その後、上京して、橋本雅邦の門下となり、狩野派を極め、雅やかな四条派の画風に堅固な狩野派の画風を重ね、独自の画境に到達する。風趣あふれる多くの傑作を生み、日本画の世界に多大な影響を与えた。昭和15年に栄えある文化勲章を受章。近代日本画壇を代表する画家として不動の地位を築いた。
水石の数寄物としても名高く、特に菊花石においては、若き日々を岐阜の地で過ごし、菊花名産地根尾の素封家・白木家の知己を得ていたことで、その素養は高く、数点の名高い名品が現在も確認されている。
清水六兵衛 きよみずろくべえ
人間国宝六代を頂点とする六兵衛は、京都清水焼の名跡。四代が少し、五代はかなり盆栽趣味を持っており盆栽鉢も作っている。その鉢は、釉物とか南蛮風の焼締が多く、絵付鉢は花鳥文が主であったという。
小糸泰山 こいと たいざん
小糸泰山は明治44年の生まれ、戦前に瀬戸で18年間作陶の修業を行った。その後、絶えて久しかった小糸窯(徳川時代の初期、風流の殿様で知られた高山城主・金森重頼とその兄で茶宗の金森宗和が京の陶工を招いて築いた窯)を復興させ、大宮盆栽村の名園・九霞園の園主・村田久造氏のアドバイスを受けて、盆栽鉢を作り始めた。
世に出た泰山の鉢は200点に満たず、ひとつとして同じ作品のない手作りで、稀少感も手伝って愛好家たちを魅了した。
佐野大助 さの だいすけ
大正8年生まれ。佐野大助は友禅絵師としての技を生かし、絵付け小鉢の名手として高い人気を誇っている。樹鉢自体の製作は、小鉢作家に委ね、自身は絵付けに専念するという、本来の陶芸界でよく行われる形をとっている。
三鐏一陽 さんしゅう いちよう (神谷一陽)
(明治35年〜昭和60年)
三鐏一陽は、明治35年、愛知県高浜市の瀬戸物卸問屋に生まれ、昭和初期から東京・恵比寿で鉢問屋を経営していた。鉢のオリジナル商品の開発に向けて、全国の窯場を巡って陶法を研究し、昭和7年に至り自らも作陶を始める。また、戦前の支那鉢礼賛の風潮に反旗を翻し、市川苔州・植松陶翠・平安東福寺らを同志と呼び、日本鉢や水盤の地位向上にも取り組んだ。独自の線を有した、研究された釉薬を用いた名鉢・名水盤を世に送り出し、植松陶翠と比肩された。
島岡達三 しまおか たつぞう
(大正8年〜 平成19年) 大正8年生まれ。益子焼の名手として、巨星浜田庄司を師事し、「一番弟子」としてその後を受け、人間国宝にまで認定された著名陶芸家。代表的な作風として、「島岡象嵌」と謳われた、線文刷毛引きを呈する焼き方がある。手の込んだ手法でありながら、絣のような素朴で親しみのある焼物である。子供の頃から植物が好きだったため、陶芸家として一家を成してからも時には盆栽小鉢を焼いたりした。その貴重な小鉢の作品は、コレクター垂涎の的となっている。
下村観山 しもむら かんざん
(明治6年〜昭和5年)
近代日本の黎明期といえる明治という時代は、不世出の天才たちを輩出した。東京美術学校(現・東京藝術大学)で名伯楽・岡倉天心の下に、後の世で日本画の四天王と謳われた若き画家たちが、その画技を高めるために寝食を忘れるほどの研鑽の日々を過ごしたのも、この時代である。下村観山はその四天王の一人であり、横山大観、菱田春草、木村武山らと共に、現代へと連綿と続く近代日本画の礎を築いた。
舟山 しゅうざん
舟山は、中国古窯、中渡りの土味を甦らせた人気の高い現代鉢作家。中国鉢には無い奥行きを重んじた寸法割を持ったその鉢は、培養を重視する愛好家にとって重宝なものである。実用日本鉢作家の第一人者といえる。
白井潤山 しらい じゅんざん
小川悠山師事した名工、盆栽界に伝えられる名卓の名工四天王の一人(ちなみに、他は小川悠山、葛木香山、一貫斉)。大正から昭和にかけて活動したが、盆栽用の卓において名作を残すのは主として昭和30年代前後である。各盆栽園を通じて盆栽界との交流もあり、その用途に応じて研究を重ね、作品に新しい境地を築いていった。その作風の特長としては、重厚かつ繊細な悠山とは対照的に、日本的な優しい美しさに溢れていることであろう。
水府散人 すいふさんじん
(大正10年〜昭和52年)
水府散人(本名・薄井正志)は、「美の放浪者」とまで謳われた愛石家であり、水石のみならず、漢学、陶芸、篆刻と多岐にわたる研究を生涯かけて行った。その生涯で度々の放浪の時代があり、越後の国(現在の新潟付近)の豪商、豪農との交誼も多かったと伝えられる。陶芸においては、板谷波山の作陶の流れを汲む研究の中で、昂じて自作の小鉢も残している。アマチュアではあるが油滴天目を出すなど、その陶技は高度なものであった。その作品の多くは現在では美術館等で永蔵され、市場に出ることは少なく、コレクター垂涎の的となっている。
清風与平 せいふう よへい
(享保3年〜文久3年)
金沢藩士の家に生まれ、京の仁阿弥道八に師事し、五条坂に開窯した初代を祖とする清風与平は五代続く。昭和の初めに活躍した五代与平は一時陶芸を離れたが、盆栽鉢の名工・月之輪湧泉との出会いにより、再び作陶の道へ進み、数々の小鉢の佳作を生み出した。中国的東洋思想を目指したその作品は、奔放な筆致による木米、蕪村が目指した世界を垣間見ることができる。詩文の中に画賛として存在する絵付けを最も得意とした。
大日本幹山 だいにほんかんざん
(文政4年〜明治22年)
大日本幹山(本名・幹山傳七)は、文政4年(1821年)に瀬戸の陶工の子として生まれた。幼い頃より、陶技、絵画ともに優れ、やがて京都の陶工の中でも頭角を現すようになる。井伊直弼に招聘され、彦根湖東焼の抱え陶工となり、その後、明治9年に京都府都知事の命により、清水五条に当時最大といわれる幹山傳七工場を作った。
日本で初めて陶業に西洋絵具を用い、優秀な陶工を集め、最新鋭の丸窯を築き、宮内庁の御用品等、最高級の品々を生み出していった。明治9年、フィラデルフィア万国博、翌12年のシドニー万国博と、その作陶の技は世界の知るところとなった。
絵付けの磁器を得意とし、精緻の極みといわれる名品を数多く世に残したが、残念ながらそのほとんどは海外嗜好家の蔵品となり、国内にはわずかな数しか散見できない。樹鉢も希少だが、山水図・人物図・花鳥図等、洋彩を駆使した芸術的価値の高いものばかりである。
高村光雲 たかむら こううん
(1852〜1934)
明治、大正時代の日本彫刻界の重鎮。伝統的な木彫りの手法に、西洋の写実を取り入れた清新な作風を開き、近代彫刻界の神とまで謳われた名工である。平櫛田中、板谷波山等、近代日本工芸の名手達が師と仰ぎ、その神技に近づこうとした。代表作として名高い重要文化財「老猿」は、明治26年シカゴ万国博覧会に出品され、絶賛を博する。東京美術学校(現東京藝術大学)教授、帝室技芸員、日展主任審査委員などで活躍。
竹本隼太 たけもと はやた
(嘉永元年〜明治25年)
竹本隼太(本名・正典)は、嘉永元年(1845年)に徳川幕府の旗本の家に生まれた。しかし、大政奉還して明治維新となり、父と共に失職。隼太は初代井上良寛の指導の元、興味があった陶業に着手するが、事業は失敗。それでも不屈の精神で試験窯を築き、研究を続けた。志が報われたのは明治10年のこと。第一回内国博覧会に薩摩風の草模様香炉を出品し、花紋賞牌を受賞し、陶工・竹本隼太の名を全国に知らしめた。以後もパイオニア精神は益々高揚し、釉薬に、窯の構造研究にと寝食を忘れて陶芸に没頭する。明治26年、東京国立博物館が辰砂釉花瓶、黒釉茶斑釉花瓶を買上げたことからも、その評価を窺い知ることができる。隼太は、父の感化で盆栽にも興味があったため、著名になっても奢ることなく、小さな樹鉢の製作にも情熱を注ぎ込んだ。日本の小鉢界の代表的作家であり、その独創的なデザインは実に多様で、多彩な釉薬の研究にも非常な才能を発揮した。代表的な蕎麦釉をはじめ、辰砂、青磁、三彩、黒釉など、類を見ない釉薬が駆使された作品が数多くある。
田中一光 たなか いっこう
信州の木彫家。天衣無縫な風貌とは異なり、ひとたびノミを持てば鬼神が宿ったかのような秀作を生み出す。現代にあっては数少ない正統派の木彫家として、本来ならば中央美術界で高い評価を得られる才を持ちながら、自身がそれらのことに全く興味を示さないため、名人・高村光雲を彷彿とさせる名品を作出していても、未だ大家にならずとさせている。
月之輪涌泉 つきのわゆうせん (月輪山涌泉)
月之輪涌泉は、明治41年、岐阜県土岐郡一之倉村(現在の多治見市)で代々陶芸を業とする家に生まれた。大正12年、17歳の時に画家を目指して京都へ出るが、実家が倒産。やむなく働きながらの勉強を余儀なくされ、清水焼の染付に精進する。病弱な身を慰めようと手掛けた盆栽だったが、自分の使う鉢くらいはと作り始め、それが同好者の間で評判となり、涌泉鉢の世に出る機となった。やがて盆栽業界にもその名は広まり、その精緻な画風と共に樹鉢作家として賞賛を浴び、絵付け鉢を中心とした名品小鉢を数多く世に残した。代表作には昭和30年代後半に2年余りの歳月をかけて作られた「東海道五十三次」の壮大な染付の作品群などがあげられる。
竹閑亭涛山 ちっかんていじゅざん
京焼の名工にして、樹鉢、水盤にも名作を残した。
呑平 のんべえ (呑兵衛)
「幻の陶工」と称され、盆器の名品を残しながらもその本名さえ知られていないのが「呑平」。今日まで実用樹鉢・水盤の最高峰のひとつとして受け継がれてきた呑平作の鉢・水盤は、現在、皇居及び民間と併せて僅か四十数点にすぎないと言われている。
宮中の鉢蔵に眠る呑平鉢の数々の箱には「小倉焼」と書かれているが、これには逸話がある。呑平鉢は、盆栽商として明治期宮内庁御用を務めた木部苔香園の意匠注文によるものと言われている。宮中にそれを運んだ際、位の高い方より「何と言う焼物か」と訊ねられた御用掛けは、さすがに「呑平」とは言えず、その鉢に植える予定であるモミジの盆栽が、百人一首で知られる“小倉山”に因んだ樹だったので、「小倉焼でございます」と答えたことが、その由来である。
その見事な作品には、釉薬と型に独特な特徴がある。多くは瑠璃色か碧藍色で、裏面にまで釉薬が施してある。針を立てて二度焼成したものであるが、尚且つ寸分の狂いも無く仕上げられた技術は、他の追随を許さない非凡なものである。水盤として邦産第一席に掲げられるが、「呑平」ほどその製作者、生産地、焼成技術などが謎とされる名品は、盆栽・水石界には存在しない。
泰蔵六 はた ぞうろく
(文政6年?〜明治23年)
歴代続く京都金工の名家。中国古代の青銅器を範として数々の名作を輩している。初代蔵六は、天皇家の印璽制作でも有名。明治に活躍した四代と、昭和に活躍した五代が名水盤を残している。
林沐雨 はやし もくう
(明治34年〜平成3年)
林沐雨(本名・義一)は、明治34年、祖父の代から続く京焼の家に生まれる。父に就いて陶業を習い、京焼の正統を身に付けた。大正10年(20歳)に宮内庁御用品製造所に勤め、磁器を修得する。その後、京焼名工・清水六兵衛に師事して林沐雨を号し、樹鉢界にも名を残す陶工となった。平安東福寺とも親交があり、盆栽の造詣も深く、作陶上のアドバイスにとどまらず、自らも培養、鉢映りに配慮された独特な釉薬を使い、多くの名作小鉢を世に残した。
原田峯雲 はらだ ほううん
(明治31年〜昭和48年)
金工名家江戸名越家の釜師・名越昌春のもとで風炉制作に従った職人が初代原田峯雲。この初代を父にして東京都荒川区日暮里に本名・兼吉として明治に生まれたのが、その後盆栽・水石界に於いて銅水盤の最高峰として知られる名工となった二代目原田峯雲である。金工職人であった父から蝋型鋳造などの技法を学び、花器・茶器等を鋳造していたが、盆器・水盤の造形に深く目利きと謳われた豊香園・鈴木倉吉翁の依頼を受けて、盆栽・水石用の薄手の水盤も作るようになる。主として制作した年代は、大正から昭和初期まで。戦火が激しくなるにつれ、原料の銅や燃料が軍事規制を受けたため、制作中止に至ったと伝えられる。
作品の特徴は「蝋型鋳造(※)」という技法のため、同一型のものが二つと無いことである。一般に鋳造品の仕上げは専門の仕上げ師が行うが、峯雲は自らの手で行うのを常とし、青銅にしても斑朱銅にしても、その仕上げの見事さでも知られている。
意匠としては長方・楕円ともにその周囲(胴や縁)に卍透かし、連珠文、渦文を施したものが多いが、無地もある。また、落款も見事な造形を見せる。大きいものは一メートルを越えるものから、30〜40センチの小中品に至るまで、作行きは幅広い。
※蝋型鋳造……蝋で原型を作り、表面を耐火物等で覆い鋳型を作り焼成して、中の蝋を取り除き、出来た隙間に金属を流し込む鋳造法。
雄山 ゆうざん
(昭和11年〜)
昭和11年群馬県に生まれる。本名・義雄。昭和47年に染付、赤絵、五彩等の小鉢の製作を開始。絵付小鉢の名手・月之輪涌泉の後を受けて、現代小鉢界で非常に人気の高い作家。実用性の高い鉢造りには定評がある。寡作で知られており、人気が高まっても気の向くままに、気の向いた時に造るのみだと言われている。
平安香山 へいあんこうざん
(明治38年生〜平成2年)
本名・小池一雄。明治38年、瀬戸の画家・藤氏の十二代目として生まれる。大正13年頃より父に習い盆栽鉢の製作を始め、実用と鑑賞の二面性を念頭において製作を続けた。日本鉢の中にあっては、一分の隙も無いと言われた正確さで、すっきりとし、線の厳しさを見ることから「カミソリ香山」の異名も与えられた。盆栽界に於いては、平安東福寺と並び称される巨匠である。晩年、その号を息子に譲り、隠居後の名を「香翁」と定めた。老成という言葉が当てはまるように、その作陶は衰えることなく、緊張感のある秀品を残している。
平安東福寺 へいあんとうふくじ
(明治23年〜昭和45年)
本名・水野喜三郎。明治23年に京都で生まれる。父の影響から盆栽を趣味として楽しみ、愛樹を植えるための鉢を作り始め、やがて趣味の域を脱し、日本鉢の製作に情熱を傾けた。しかし、中国鉢の崇拝された存命中はあまり評価されず、貧困の生活を余儀なくされた。昭和45年に49歳で没後、その鉢の使い勝手の良さから急激に評価が高まり、今や盆栽界で知らない人はいないほどに至る。京五条の共同登り窯等で作品を焼き、大小・器形・釉色・泥色・絵柄物など、多種多様な盆栽鉢・水盤を生み出した。陶胎の小鉢が大半を占め、おおらかな線とシンプルな意匠で「植えて樹が引き立つ」ことが特長。又、意匠の多様さから観賞用に蒐集されることも多く、とりわけ珊瑚釉、緑釉、広東釉、瑠璃釉などに名品がある。
本郷寿山 ほんごう じゅざん
本名・本郷寛。最後の名工とも謳われ、小川悠山のほぼ最後の直弟子の一人。戦後、盆栽・水石用の卓、飾り棚等の製作を主とした。唐木専門で、主に紫檀、花梨を材に用い、小・中品から大きいものは三尺ほどまで、どちらかと言うと繊細で垢抜けたすっきりとした線の作品を作った。作風としては、同門の名工・金子一彦に似る面が認められる。
本間啄斉 ほんま たくさい
(文化9年〜明治24年) 越後の金工にして代々一家を成す本間啄斉。彫金を得意とし、特に銅器の名作を数多く作出している。特に初代は斑朱銅の名手としてその名も高く、箱書のある完品といえるのもは入手困難とされている。
真葛香山 まくず こうざん
(天保13年〜大正5年)
真葛焼の祖は本名を宮川長造と言い、慶長年間に京都・知恩院前で楽焼を作っていた宮川有閑斉の十代目にあたり、江戸後期の陶工として活躍した。若くして江戸に出たが、天保年間に京都に戻り、青木木米に師事した後、祇園の真葛原に開窯し、真葛焼の名で世に知られた。その長男が早逝したため、四男の寅之助が初代香山を名乗り、明治初頭に横浜南太田に窯を開いた。「高浮彫」を生み出し、明治9年、真葛焼はフィラデルフィア万国博覧会に出品されると多くの国に絶賛され真葛焼と宮川香山の名を世界に知らしめる。その後、作風を一変、華麗な京焼きの伝統を生かす作風を確立し、大正5年に75歳で世を去った。その息子である二代香山半之助も「マクズウエア」の名で広く世界に知られ、明治29年に帝室技芸員とを拝命する。三代代真葛香山葛之輔が昭和20年横浜大空襲に被災して死亡。戦後、三代目の弟智之助が四代目を名乗り復興を目指すが昭和34年に亡くなり「真葛窯」は絶えた。盆栽界に残された真葛香山の稀少な作品は、主に初代、二代によって作られたものである。陶聖板谷波山と並び、その作品に重要文化財を残す、陶芸界の巨人である。
宮崎一石 みやざき いっせき
(大正8年〜昭和59年)
本名・宮崎淳。一陽会・米良道博画伯に学んだ絵の道から、花器・茶器の作陶へと進み、昭和40年頃からは小鉢の製作を開始する。生来の器用さを以って几帳面に作られた器胎に、絵心を秘めて余白の美を活かした絵付けを施した。ことに染付、赤絵がよく知られ、極めて薄造りにして奔放な筆致で描かれたその小鉢は、コレクターの人気も高い。赤絵の名工達の先達とも言える。
宮永東山 みやなが とうざん
(明治元年〜昭和16年)
昭和初期まで帝展などで活躍した宮永東山は、京焼染付の名手。青磁を焼かせたら当代随一ともされ、その窯で北大路魯散人が青磁を自ら焼いたことでも知られている。
横山大観 よこやま たいかん
(明治元年〜昭和33年)
旧水戸藩藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。狩野派の巨匠狩野芳崖などに教えを受け、東京美術学校に第一期生として入学。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。
今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立し、明治・大正・昭和を生き、「日本」と言う美しい国を心象風景として書き残した。帝国美術院会員。明治の日本美術の方向性を築いたとも言える岡倉天心の薫陶を受けて、朋友菱田春草らと共に幾度もの苦難を乗り越え、貴き画境に到達したことは、あまりにも有名。昭和12年、日本画家として初の文化勲章受賞者となる。画中に「気韻生動」を描く、これが大観芸術の本質とされ、日本の美しさ、気高さを見事に現代に伝え残す、近代日本画壇に燦然と輝く不世出の天才。
稚松愛草 わかまつ あいそう
生没年不詳。小鉢コレクターの隠れた人気鉢作家。その作風は、東福寺、香山と並ぶと言われながら、人物的にはその殆どが解明されていない。京都稚松小学校付近にその住まいがあったことから、この陶名が使われた。五葉松根連の名樹「舞子」に誂らえた三尺に亘る大作は有名で、愛草の幻ともいえる名作。寡作であったため、その作品はコレクターの蔵深くに眠るものが多い。